2006年12月03日日曜日
---奇妙なお話し5--- [ショートショート]
『個展の絵』 その一
会場はたちまち騒然となった。
絵の前で何やら大声で喚き散らしている女がいる。
私が長年待ち望み、やっと実現した個展会場でのことである。
「絵が・・・・この絵がお爺ちゃんを・・・・。」
今度は絵のある一点を見つめたままぶつぶつ独り言を言い始めた。
私は何事が起こったのか把握すべく女に近寄った。
「どうかなさいましたか。お加減でも悪いのでしょうか。」
女はまた同じ事をつぶやき始めた。
「お爺ちゃんが絵の中に入ってしまったの・・・。」
「はあ?」
今度はヒステリックな声で、
「この絵は生きている!私の横でこの絵を観ていたお爺ちゃんが突然消えたのよ!」
驚きのせいなのか目を剥いてわめいている。
あっと言う間に私と女は絵を観覧していた人たちで囲まれた。
女が何を言っているのか判らなかったので、
「絵がどうかしましたか。」
と再度聞き直したとたん、女は壁に掛かっている絵をひっかき始めたのだ。
幸い絵はガラスの中にあるため無傷だったが、その時の女の形相はすさまじいものだった。
私と警備員は女を別の部屋へ連れていった。
落ち着かせた後、女が言うにはこういうことだった。
少々足の不自由な祖父の手をとって絵を観てまわっていた。
ちょうどあの問題の絵の前に来た。
女はその絵にはあまり関心がなかったのか、横の絵の方に目を向けていた時だった。
「祖父の手が私の腕からするりと抜けたのでどうしたのかと振り向いたら、その時にはすでに祖父はいませんでした。
瞬間的に消えたとしか思えないんです。」
未だ興奮冷めやらぬといった風で思い出したように泣き叫ぶ。
その後に聞いた女の言葉に私たちは驚いた。
「ほんの..瞬間だったのですけど...祖父の方を振り向いた時、絵の中に描かれている木が動いていたのを見たんです。」
「えっ、何ですって?」
「...木がお爺ちゃんをどこかに隠していたような様子でした。」
「絵の中の木がお爺さんを引きずり込んだとおっしゃるんですか...?」
私たちは女の話しをこれ以上聞いていても無駄と判断し、一旦警察へ連絡してそれなりの措置を講じてもらった。
ただし、私はあながち彼女を馬鹿にして扱った訳ではなかったのだ。
というのも昨日会場に来ていた老年の男性が例の絵を観ていた時、左側に描かれた大きな木が僅かだがゆっくりと枝を動かしているのに気が付いたという。
初めは目の錯覚かとも思ったのだが、注意してみていると、数秒前に比べ枝の本数が増えているので間違いないと言い張っていた。
もちろん絵は私の作品であり特別感情を込めて描いたわけでもなかったが、スイスの湖の畔で写生した私にとっては、わりと気に入っている風景画である。
2年ぶりに訪れたスイスは、澄んだ空気と目の覚めるような緑や青の織りなす自然の絶妙な色彩バランスが何とも表現しようもなくすばらしかった。
私は反射的にキャンバスをひろげたものだ。
すでに寒い九月のことだった。
ことさら言うほど気にすることのないあの絵が、今は話題の中心にある。
話題と言っても絵からは想像できない奇怪な内容であるため、私としても折角の個展を台無しにされるまま放っておけないのは当然のことであり、昨日の出来事に続き、また今日も不可解なことが起こった..?わけであるから放っておけない。
昨日の時点ではあの中年の男が嫌がらせのために仕組んだ芝居ではないかと思っていたのだが、はっきりした根拠は何もない。
ところが今日になってまたこの事件である。
女の話を聞くうちに真相を確かめてみようという気になった。
警察へは連絡した方がいいのだろうが、内容が内容なので警察も本気で取り合ってくれるはずがないと思った。
しかし老人が突然消えてしまったではないか...と少なくとも女は言っていた。
これは立派な事件として成り立つかどうかは、当局が判断すればいいことだ。
ただ女の言うとおり初めからお爺さんという存在があったということすら明確になってないし、その場にいた他の観覧客もお爺さんの存在を立証出来るかどうか疑問である。
少なくとも私と警備員はお爺さんを確認していなかったのだから。
その晩、私は一人であの絵を見ようと会場に入っていった。
もちろん会場には誰もいず非常灯の青白い光と私の持つ懐中電灯の丸い明かりだけが、交わったり離れたりしている。
あの絵の前に来た。
絵は昼間と変わらず穏やかな風景を伝えているだけで、男の言っていた枝やお爺さんの姿など・・・今考えるとここにいる自分が滑稽にさえ思えてくる。
"俺は何をやっているんだ。"
私は苦笑いのまま会場を出ていった。
しかしその直後あの絵の中で大きな変化があったことは知る由もない。
会場の静けさの中で、野良犬が骨付きの肉を食っているときのような、下品で野蛮な音が少しの間続いていたのである。
翌日、会場は昨日にもまして慌しかった。
初めに発見したのは警備員であったが、すぐその知らせに私も現場に急いだ。
現場は会場奥のあの絵の前であった。
思わず私は目をそむけた。
おびただしい量の血が床に塗りたくったように広がっており、朝の陽をテラテラと反射させているのがひどく艶かしく見える。
「なんだっ・・・これは!」
とにかく私は警察に連絡をとり、今日の絵の観覧は中止するという旨の張り紙を扉に付けた。
間もなく鑑識を伴って制服を着た警官が五人ほど会場に到着した。
事務的に作業が続けられる中、私は一人の私服の男から質問を受けていた。
とにかく個展が開催されてから次々と奇妙なことが起こっているわけで、その一連の出来事はどれも無関係ではないような気がしている。
『個展の絵』その二に続く

