2007年01月11日木曜日
---奇妙なお話し6--- [ショートショート]
『封印された記憶』 その二
それはとても心地よく、拭き方にも丁寧さというか愛情にも似た感覚が伝わって来るものだった。
一通り体を拭き終わると、今度は私の手を両手で包むように握ってきた。
握りながらその気配・・・その人はどういう表情で私を見つめているのか、その人は私にとってどういう人なのか。
溢れる疑問と、一種他人事のようにスリルを楽しんでいる自分に気が付いた。
相変わらずその人は話しかけるわけでもなく、全く声を発しないのでどういった感じの人・・・・
例えば歳格好、性別、顔、性格の片鱗さえも見せてくれない。
ただ感じることは自分にとって、不利益になるような人ではないということだ。
あかの他人が重病患者の世話をしにわざわざやってくるはずがなく、ましてや堂々と身の回りの世話までやってくれるのだから、肉親の人か或いはかつての恋人か。
どちらにしても早くその相手の顔を見たい。
恋人と思ったのは、極自然にそれまで自分にしてくれた細やかな行動と、あの包むように握りしめていたときの指の動きから何となくそう思っただけであるが・・・。
手の大きさから判断して女性であることは間違いないだろう。
しかしなぜ、話しかけてくれないのだろう。
言えない理由でもあるのか。
その人は立ち上がったまましばらくそこに居たが、静かに扉を開けて部屋から出ていった。
たびたびその人は、私の身の回りの世話をしに来るようになった。
それは必ず医者と看護婦の回診の後と決まっていた。
私の頭の中では様々な憶測が渦巻いていたが、あえて私からその謎を解明しようとはしなかった。
どうしてかは自分にも分からないが。
それから二日後看護婦が言っていたように、いよいよ頭の包帯をはずせるときが来た。
いろんな意味で待ち遠しい日がやっと来たのだ。
しかし身体の殆どはまだ麻痺した状態が続いており、他人の助けがなければ些細な事でも一人では何も出来ない有り様だ。
そんな自分を情けなく思ったが、殆ど毎日決まった時に来て私の世話をしてくれる人の顔も見られると思うと、楽しみと多少不安な気持ちが相まっていた。
看護婦の手が丁寧に包帯をはがしてゆくにつれて、瞼を通して感じる明るさが少しずつ増してくる。
「目を急に開けると危険ですから、ガーゼをしばらく当てたままでゆっくりと時間をかけて光りに慣れていってくださいね。」
私は恐るおそるガーゼに指を当てた。
看護婦がいつものように下の始末や点滴の交換をしている最中、出窓の花を見て
「あら、変ねえ。確か昨日は・・・・・。」
と独り言を言っていた。
が、なんて言ったのか私には聞こえなかった。
看護婦の忠告に従ってゆっくりと時間をかけ、闇の世界から抜け出そうとしていた。
ガーゼの端を今まで以上にめくり、そっと瞼を開けてみた。
光は容赦せずに瞳孔を縮めた。
怖い。
今の光と同じように失われた記憶が、私に報復する時が来るかもしれない。
それはこのガーゼを取って、再び瞳に画像が映し出されたときかもしれない。
ためらっているうちにいつ入ってきたのか、あの人が側にいた。
その人は私の頭を撫でていたが、何となく泣いているように思えた。
声さえ出さないが、撫でる手にそれが微妙に伝わってきた。
どうして泣いているのですか?
あなたは誰なのですか?
なぜ何も話してくれないのですか?
その日以来その人が部屋に来ることはなかった。
3日が過ぎあれほど躊躇していた、目を開ける練習も何のこだわりもなく無事終わり、今は嬉しさでいっぱいである。
「どうですか。あのお花きれいでしょう。」
と看護婦が指さした先には、真っ赤なカーネーションが生けてあった。
私はうなずくと、何か書くものがほしいということを、手振りで看護婦に伝えた。
部屋を出るとまたすぐに大学ノートと鉛筆を持って戻ってきた。
まだ、口が思うように動かない為だ。
「なにを書くの?」と看護婦は興味ありげに私の手元を見ているようだ。
頼りないが何とか読める字で、
"いつも看護婦さんたちの後から部屋に来ていた人は誰なんですか"
と書いた。
看護婦は怪訝そうな表情で答えた。
「誰って・・このお部屋は昨日まで面会謝絶だったから、先生と私たち看護婦だけのはずよ。
他の人は入れないし、もし入ったとしても警報の合図がナースセンターに届くようになっているの。」
少し後からつけ加えるように、
「だまっていたけど・・・ちょっと私にも気になることが・・・。」
と言いかけてあわてて口をつぐんだ。
なぜか看護婦は青ざめていた。
数週間が過ぎた頃、リハビリも兼ねて部屋の外に出ることを許された私は、看護婦に付き添われ点滴を伴ってそろそろと廊下へ出てみた。
廊下には様々な事情を持った人間たちが身体を治療しに来ているのだろうが、同時に萎えた心を診てほしくて通う人間もいるのだろう。
病は気から・・・とよく言うが肉体と心とは一体のものであるがゆえに、どちらかに異常をきたすとお互いのバランスが崩れてしまうことが間々ある。
幸か不幸か今の自分は私ではなく、新たに生まれた私のコピーである。
ただコピーの際に一部分だけ置き去りにしてきたため、空白の部分が多くそれを埋めるべく今から試行錯誤を繰り返すのだろう。
(その前に記憶が蘇るかもしれないが。)
だから悩みを作っている暇もないと思う。
一階のロビーには自分の名前が呼ばれるのを待っている人たちでいっぱいである。
私はそこまで降りて行く体力はまだないので、一階を見渡せる吹き抜けで少しの間出入りする人たちを二階から眺めていた。
「今日はとてもいいお天気よ。そこの窓からなら花壇のお花が見えると思うわ。」
看護婦の指さした窓に目を向けた瞬間妙なものが目に写った。
窓の向こう側からこちらを見ている人が居るのだ。
若い女だ。
私には見覚えのない顔である・・・・といっても殆どの記憶が消えてしまった今となっては何とも言えないのだが。
その女は私と目が合うことを分かっていたかのように、すかさずこちらに向かって微笑んだ。
不思議と恐怖感はなく、なぜかその女に対して懐かしさすら沸いてきた。
笑みを崩したかと思うと急に悲しそうな表情をした女は、私に手を振りながら消えていった。
看護婦には見えなかったらしく、その窓を開けて深呼吸している。
私も窓に近寄りそこから下を見おろした。
もちろんそこにはあの女の姿はなく、花壇の花を見ている老夫婦が居るだけだった。
これで私のすべてが完全に消え去ったようなそんな気がした。
---おわり--- 1991年創作

