2007年03月02日金曜日
---奇妙なお話し8--- [ショートショート]
『何かがいつも』 その一
今日はいつになく、朝早くから皆が動きだした。
以前から計画していた山登りの日なのだ。
私を含めて妻、そして二十歳になる長女の三人で行くことになっている。
私も大学時代、山岳部に所属していた経験もあって山についての知識は、普通の人よりも多く持ち合わせているつもりだが、卒業して二十年以上も山なぞには登っていないから知識よりも体力の方が心配である。
妻は近所のママさん連中とバレーボールをやっているし、娘も大学でバスケのクラブに入って頑張っている。
私はと言えば、通勤のうちのほんの10分程度歩くぐらいでスポーツといえるものは何一つやっていない。
未だ朝五時を回ったばかりで、初秋と言っても外は結構ひんやりし始めている。
荷物を整えていざ出ようとしたとき、娘が
「お父さんチョコレートは持った?」
「えっ、チョコレート?」
「万が一遭難したときに、非常食として高カロリーのチョコレートが役に立つのよ。一枚のチョコで大人二人が、一週間生き延びて無事助かったって言う話を 聞いたわ。」
「そうだな、まあ備えあれば何とかっていうからな。」
しかしその万が一が全ての始まりだった。
目的の山は南アルプスの中では比較的初心者向けの部類のところで、春口から秋の終わり頃までハイカー達でにぎわっている。
私達は昼食を頂上でとろうと予定していた。
幸い秋晴れに恵まれたので、山の上から見る連山の壮観な姿を見ながら食べるおむすびは、このうえない御馳走になるのだ。
かれこれ二時間ほど登り続けた背か足腰に来ている。
「少し休憩しないか。」
「もう動けなくなりました?お父さん。」
妻が私の顔をおかしそうにのぞき込んでいる。
頂上まであと一時間ほどでつくだろう。
私はヤッケの内ポケットに手を入れ、タバコを取り出し火をつけた。
深く吸い込みゆっくりとはきだす。
頭を所々白く雪化粧し始めた山々が、目の前にえんえんと広がっている。
その時上の方から「きゃっ」と言う叫び声が聞こえてきた。
娘が何やら一方を凝視している。
蛇だ。
それも真っ白な蛇。
こんな所に、それもこんな蛇がいるなんて聞いたこともない。
それほど大型ではないから危害を加えることはないと思うが、何とも不思議だ。
蛇をやり過ごして頂上へ向かった。
時間とともに霧が濃くなってきたようだ。
妻と娘はさほど疲れた風もなく、単々と足場を選びながら登っている。
気がつくと、はい松の群生地帯になったようで乳白色の霧の移動とともに、黒い影が見え隠れしている。
これは参った。
山登りで一番やっかいな霧が私達の肌にまとわりつく。
霧は一寸先を覆い隠し、登山者の方向感覚を完全に狂わせてしまう。
初心者であれば、やたら帰り道を探し惑い知らず知らずのうちにとんでもない方へ入り込んでしまう。
行けども行けども霧の中からは脱出できず、疲れはててくると思考力も体力も極端に無くなる。
寒さと、霧におおわれている息苦しさで混沌としてくると危険である。
自分が遭難したという意識から、死という文字が頭を占領してしまう。
私のかつての友人二人も、そのような状況に陥り危うく命を落としてしまうところだった。
山には人間を受け入れない場所があるのか。
その場所を侵されたくないために急な天候変化で人間の侵入を拒み、あるときには死に至らしめるのであろうか。
私はしばらくその場所に待機することに決めた。
とかく霧というものは気まぐれな素顔を見せるるもので、二十〜三十分程できえることもあるものなのでむやみに動き回らず、じっと様子をうかがうのも一つの手である。
次回、その二へ

